赤膚焼きとは?


現在の赤膚町を中心とする西の京丘陵一帯は、古くからの窯業地で、土器、火鉢などの制作が盛んに行われ、貴族や諸社寺の需要に応えていたと思われます。
後に茶の湯がおこると土風炉が作られるようになり、桃山時代の天正慶長の頃には、大和郡山城主大和大納言秀長が尾張常滑から陶工与九郎を招いて風炉をはじめ茶陶を作らせたとされています。
江戸時代にはいると、元和年間(1615−1624)には遠州流の開祖小堀遠州が好みの陶器を作らせ茶道具として世に知らしめたとも、また西保年間(1644−1668)には、京都より野々村仁清が来て京風の茶器の製法を指導したとも伝えられています。
その後江戸中期には、大和郡山城主柳沢堯山公が京都清水より陶工伊之助、治兵衛の二人を招き、窯を復興し、郡山藩御用窯として保護奨励することになります。
楽焼茶碗を堯山公に献じて木兎の号を得た郡山藩の御殿医青木木兎や大和郡山市内で小間物商を営みながら楽焼を始め、多くの名作を今に残す奥田木白らによって赤膚焼の声価を全国に高めました。
現在は、この伝統の上に新境地を求める作家もあり、奈良固有の焼物として愛好されています。